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千年紀 [歴史]

源氏物語起筆の地といわれる滋賀県大津市石山寺。時の権力者、藤原道長は、娘の中宮彰子が一条天皇に気に入られるようにと紫式部を宮中に招き、物語を書かせたという。ところが彰子が天皇の子供を生むと紫式部は、宮中で冷たくされることを敏感に感じ取っていたはずである。そのことが影響したであろうと思われる内容で、光源氏の死後として、宇治十帖に描かれている。薫と匂宮に愛された浮舟が、宇治川に飛び込むも、命を取り留め出家する。その浮舟から手紙の返事が来ないので、薫に男がいるのだろうと思うのが、源氏物語の結末である。源氏物語は、光源氏と兄の朱雀院との皇位継承問題が全文を貫き、源氏の行動を支配している。795首の和歌。他の古典文学と違いイデオロギーや社会の仕組みなどに縛られない、自由なこころの動きが主題。光源氏は美しい女性ならば、どんな境遇の人でも思うを寄せる人物。そんな光源氏ら登場人物のこころの動きを見つめていると、今でも共感できる部分が多い。思えば、1000年の昔から人間の心は変わることはない。


満州 [歴史]

1932年、満州事変で占領した土地に日本は満州国を建国。元首には清朝最後の皇帝(宣統帝)、愛新覚羅(溥儀)を擁立した。34年に皇帝(康徳帝)となった。清は満州族がつくった王朝であるから、その出身地で元首にすれば、国際的な非難は避けられるとの関東軍(満州の日本軍)のもくろみがあった。しかし、国際連盟は満州国の建国を認めなかった。満州国を承認した国は、当時、日本と同盟関係にあったドイツ、イタリアや、太平洋戦争で日本の勢力下にあったタイ、ビルマなど、約20ヶ国であった。総面積は約130平方キロ。今の日本の面積の3.4倍の広さで、現、中国の東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)に内モンゴル自治区と河北省の一部を含んだ広大な面積であった。人口は建国時3千万人であったが、40年には4200万人に増えた。内、中国人が9割で、朝鮮人、モンゴル人と続き、日本人は2パーセント程度であった。日本の民間人は建国時には23万人であったが、敗戦時には155万人に増えていた。しかし、戦争に負け引き揚げる際には、20万人以上が命を落とした。また、敗戦直前に軍に動員された開拓団を含め、軍人ら60万人以上がソ連によってシベリアに抑留され、6万人以上が死亡している。


江戸しぐさ [歴史]

「うかつあやまり」
人ごみの中で足を踏まれたとき、踏んだほうは言うまでもなく誤るが、踏まれた方が「こちらこそ、うっかりしていました」と誤ること。

「会釈まなざし」
すれちがう時、お互いさりげなく目で挨拶をすること。

「傘かしげ」
雨の日、相手も自分も傘を外側に傾けてすっとすれちがう。

「肩ひき」
狭い道を歩くとき、人が来たら互いに右肩を少し後ろに引いて、斜めにして胸と胸を合わせるような格好で歩いた。

「こぶし腰浮き」
渡し舟に乗るとき、先客は腰の両側にこぶしをついて腰を浮かせ、こぶしの分だけ幅をつめながら空間をつくって舟に乗った。


華族 [歴史]

子孫は先祖に対して責任を持つ必要は一切ない。私どもがこの世に一人、存在しているのは三百数十年前までさかのぼれば、その間、どれだけの血縁者をもつか数学的見地から捉えてみると、およそ五十万人や百万人ではきかない。ところで、歴史に名を成した人物は得てして、先祖を自分の都合のいいように作り変えていることが多い。明治時代につくられた華族には、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵があった。ちなみに蜂須賀侯爵の先祖小六は泥棒の頭目であったし、九鬼子爵の先祖は熊野九鬼の浦の海賊であった。要するに日本の華族というものは、どこの馬の骨ともわからない、確かな血筋であるといった類のものではない。


徳川家康 [歴史]

家康は偉くなってから源氏の嫡流で、新田義貞の子孫だといって家門に箔をつけた。もともと、そういう家柄ではなかった。三河松平郷の、いまでいう村長程度の身分であり、血統もあいまいである。家康の数代前は、乞食坊主の高野聖である。北国あたりをうろついていた末、松平郷に辿り着き、とある家に世話になり、その家の後家と誼を通じ、家康の先祖が誕生する。その折、乞食坊主は自分は上州徳川村の出身であるといった。今の埼玉県深谷市の北方2キロあたりの利根川の北岸である地域である。近くに新田という郷があり、鎌倉時代以前から源氏の一派が住みついていた。一族は源氏の潮流として優遇されていた。新田義貞はその地が出ている。乞食坊主はこの子孫であると語り、家康はこれをもとに源氏をなのり征夷大将軍になった。


苗字 [歴史]

日本人の代表的な姓は、源、平、藤、橘(げんぺいとうきつ)の四つであり、日本人はこのいずれかの姓に全て属することになる。ちなみに私は源です。皆さんも調べてみたらいかがですか。


源平思想 [歴史]

日本の武力政権を樹立した最初は平家である。次に源氏の鎌倉政権にとってかわり、その鎌倉政権は、平氏の北条家にとられる。北条家は源氏の足利氏にとられ、室町幕府になった。信長の頃は室町幕府もあってなきような存在であったが、とにかくそれを倒すのは平氏でなければならず、そのため信長は平氏に改姓した。そのとき同盟者の家康も藤原氏から源氏にあらためるため、朝廷に請願した。その証拠を作るために、遠祖徳阿弥の寝物語が生きてきた。徳阿弥が室町中期ごろ三河の山の中、松平郷に来て、その山間の有力者の家に入り込み、その家の娘と通じ家系が出発した。寝物語で徳阿弥は新田源氏の族であることを語った。そのことをうまく理由にしたて、この機に姓を徳川に改め、以後、家康は正式名称を源朝臣家康として署名などに用いるようになった。このころから源平交代思想が派生してきた。又、藤原氏や平氏では朝廷の慣例により征夷大将軍の官はくだせないといった慣習も出来上がっていた。すなわち、源頼朝の先例以来、源氏にかぎられていた征夷大将軍でないと幕府はひらけない。信長は平氏、秀吉は豊臣氏であったが家康は源氏であったので徳川幕府がひらけた。


尾張三英傑 [歴史]

秀吉は、今日の人にたとえれば商売で貯財し、代議士に打って出たであろう政治家である。代議士としても票集めがうまく、選挙の神様と言われたに違いない人物。
信長は、芸術家的体質が濃厚であり、常識をこともなく破り模倣を嫌って創造に生き、どんらんに創造をかさねて、ついにその事業を体系化しえずに破滅した前衛芸術家だったに違いない。
家康は、信玄、謙信のような戦術的天才ではなかった。また、信長のような俊敏な外交感覚もない。長じて才があるとすれば、部下に対する卓越した統率力があったことからすれば、今なら高級官僚。
歴史を辿ると実に愉快である。それぞれ特有の個性があり、現代人に当てはまる。


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